炭治郎、伊之助、悲鳴嶼、時透の出身地は奥多摩に集中しています。
This seems to hint at another story hidden in “Demon Slayer”.
「鬼滅の刃」に隠された、もう一つの物語のヒントになっていそうです。
(この記事は、「鬼滅の刃」1巻、23巻、ファンブック第一弾のネタバレを含みます)
「鬼滅の刃」は、神話や伝説が織り込まれていることが連載当時から指摘されていますが、地図上の位置関係も大きな鍵が隠れているようです。
例えばファンブック第一弾で紹介されている、以下のキャラクターの出身地はこんな感じになっています。
伊之助の出身地 … 東京府 奥多摩郡 大岳山(奥多摩、大岳山)(42頁)
悲鳴嶼行冥の出身地 … 東京府 青梅 日の出山(日の出山、青梅)(72頁)
ただ、時透無一郎の出身地は「東京府 奥多摩郡 大岳山(奥多摩、大岳山)」(58頁)と書かれているのですが、「鬼滅の刃公式」のツイートで景信山(かげのぶやま)が正しいと訂正がありました。
どっちでもいいような気もしますが、これも地図を重視していることを示す一つの例といえそうです。
では、こうした地名にはどんな意味があるのでしょう?
鬼滅のキャラクターの出身地でわかるもの
炭治郎・禰豆子、伊之助、時透、悲鳴嶼の出身地は関東地方の山々ですが、地図で見るとこんな感じになります。けっこう集まっていますね。
多摩川の源流域は古くから神仏が習合した修験道の聖域となっていて、神社が点在する場所でもあります。鬼滅キャラの出身地や、その周辺にも重要な神社があり、歴史的な出来事があるようです。
雲取山の場合
炭治郎・禰豆子兄妹の出身地とされている雲取山は、妙法ヶ岳、白岩山と合わせて「三峰山」と呼ばれる山で、妙法ヶ岳には三峯神社の奥の院(奥宮)があります。
一帯は霧が多く、野口雨情は民謡「秩父三峰(ちちぶみね)」で、「朝にや朝霧 夕(ゆうべ)にゃ 狭霧(さぎり) 秩父三峰ァ 霧の中 霧にまかれりや 三峰さまも 霧にまかれた ままで 寝る」と歌っています。
狭霧といえば、鱗滝さんの住んでいた場所が「狭霧山の麓」でした(1巻 第1話)。 野口雨情は唱歌「シャボン玉」を作詞した人物でもあります。「シャボン玉」は、ファンブック第1弾に栗花落カナヲの趣味(76頁)として紹介されていて、興味深い繋がりがあると言えそうです。
また、七ツ石山から雲取山にかけて、謀反の罪で藤原秀郷に追われた平将門が落ち延びてきたという伝説があり、逃走ルートとされる山道には2017年6月に「将門迷走ルート」が観光スポットとして設けられています。
雲取山からだと、鴨沢登山口から登っていくと「将門迷走ルート」に出ることができます。
そういえば炭治郎と対峙した鬼の中には、将門伝説の特徴を持つ者がいました。
茨城県の岩井で討死した将門の首は、藤原秀郷により京の七条河原に晒されるが、怨念により故郷の東国に向かって飛び去ったという伝説がある
沼鬼 … 1人の鬼が3人に分裂している。そのうち三本の角を生やした一人は歯ぎしりをしている
将門には複数の影武者がいたという伝説がある。また、七条河原に首が晒されたとき、何カ月たっても目を見開き、歯ぎしりしているようだったと伝えられている
平将門は「鬼滅の刃」の重要な鍵の一つになっていそうです。
大岳山の場合
伊之助の出身地とされる大岳山は、御前山、三頭山と合わせて「奥多摩三山」と呼ばれる三山の一つで、大岳山の山頂には大岳神社(大嶽神社)があります。
聖武天皇の御代に吉野山の大峯山から蔵王権現を勧請したと伝えられていて、修験道の重要な場所とされていました。
また徳川家康とも縁の深い場所で、家康はこの地の修験者たちに西国大名が攻めてこないよう祈祷させたといいます。
そして慶長11年(1606年)に、大岳山に隣接する御岳山山頂にある御嶽神社の社殿を南向き(鎌倉の方角)から東向き(江戸城の方角)に建て直させて、江戸の西の護りとしました。
伊之助の好きなものは「天ぷら」、趣味は「炭治郎に教えてもらった『ことろことろ』という童遊び」とファンブック第一弾に紹介されています(42頁)
天ぷらは家康が晩年に気に入って食べすぎたため亡くなる原因になったという俗説があり、「ことろことろ」は日光東照宮・陽明門にある「唐子の知恵遊び」という彫刻のモチーフの一つです。
徳川家康も「鬼滅の刃」の重要な鍵の一つになっていそうです。
参考 吉田類のにっぽん百低山 大岳山・東京 NHK総合
景信山の場合
時透無一郎の出身地とされる景信山は、高尾山へ至る奥高尾縦走路に連なる山の一つです。高尾山には飯縄大権現を祀る高尾山薬王院があります。
景信山のそばには小田原城の支城となる八王子城があり、北条氏政(後北条氏4代当主)の弟・氏照が居城とする山城が築かれていました。
展望のいい景信山には烽火台が設けられていて、氏照の家臣・横井監物景信という人物が守備していたといいます。
参考 「新編相模国風土記稿」
参考 「築井県紀行詩集」
天正十八年(1590年)の豊臣勢による小田原攻めでは、小田原城の援軍に向かった氏照に代わって景信が上代を務めていましたが、前田利家らに攻められてわずか一日で落城。檜原城(ひのはらじょう)へ向けて落ち延びる際、景信山に登って尾根伝いに逃げたという説があるようです。
その後、小田原城も陥落。北条氏直(後北条氏5代当主)は黒田官兵衛の説得に応じるのですが、自身の命と引き換えに小田原城中の者たちの助命を願い出たため、感心した秀吉は氏直を助命したといいます。
このとき、氏直の正室が徳川家康の娘・督姫(とくひめ)だったことも、助命の際に考慮されたと考えられています。徳川家と縁のある人物だったんですね。
ただ、氏政、氏照は許されず切腹となり、助命となった氏直も翌年に病没したため、北条早雲を祖とする後北条氏は滅亡。後北条氏の治めていた関東一帯の領地は家康に割譲されて、江戸幕府誕生につながっていきます。
ちなみに、後北条氏の紋は北条鱗と呼ばれる三つ鱗。善逸の羽織の模様をイメージさせる三角で構成されるデザインです。
日の出山の場合
悲鳴嶼行冥の出身地は「東京府 青梅 日の出山(日の出山、青梅)」とされています。
日の出山は御岳山の東に連なる山で、御岳山には山岳信仰の霊場として発展した武蔵御嶽神社があります。
また、日の出山のある日の出町の隣は青梅市で、市の名前の由来となっている「将門誓いの青梅」が金剛寺にあります。
秀郷軍に追われた将門が、日の出町大久野まで逃れてきたとき、金剛寺に立ち寄って「我がこと成るなら、この梅栄えよ。成らぬなら枯れよ」と祈願して、馬の鞭に使っていた梅の枝を地面に刺したといいます。梅の枝はたちまち根を張り、枝をつけたのですが、その実はいつまでたっても黄色くならず青いままだったことから、地名も「青梅」になったといいます。
悲鳴嶼さんの出身地も、平将門に関わる伝説があるんですね。
「鬼滅の刃」の時代設定につながる多摩御陵
上の地図は、炭治郎たちの出身地に多摩陵(たまのみささぎ)の位置を追加しています。
多摩陵というのは、大正天皇(第123代)が葬られている大正天皇陵のこと。すぐそばに昭和天皇(第124代)の御陵である武蔵野陵(むさしののみささぎ)が造営されて以降、大正天皇陵を「多摩陵」、昭和天皇陵を「武蔵野陵」と分けて呼ばれるのですが、総称して「多摩御陵」と呼ぶこともあるようです。大きなひとかたまりの御陵と考えられるわけですね。この多摩御陵をよく見ると、「鬼滅の刃」と興味深い関係があるようです。
炭治郎たちの活躍した時代は大正時代、そして「鬼滅の刃」の最終話(23巻 第205話)は、スマホが描かれているので平成以降と考えることができます。
大正天皇は、もちろん大正時代。昭和天皇は昭和64年(1989年)に崩御されたので昭和ですが、昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)は平成12年(2000年)6月に崩御されています。
香淳皇后陵である武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)は昭和天皇陵のすぐ東側にあり、総称していう多摩御陵の一つに入ります。
多摩御陵に葬られている天皇・皇后は、大正から平成へと描かれた「鬼滅の刃」の時代設定に重なっているんですね。
もしかすると、「鬼滅の刃」の時代設定は、多摩御陵にヒントが隠れていることを指す鍵になっているのかもしれません。
そのヒントは、大正天皇の皇后である貞明皇后(ていめいこうごう)にありそうです。
貞明皇后は旧名を九条節子(くじょうさだこ)といって、公爵・九条道孝の第4女です。九条道孝は藤原北家の嫡流を継いで、最後の藤原長者に任じられた人物。
つまり貞明皇后は、「藤原鎌足を祖とする藤原北家から立后した皇后」ということになります。
貞明皇后の御陵は大正天皇の多摩御陵のすぐ東側、多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)に葬られていて、やはり総称していう多摩御陵の一つに入るんですね。
こうしてみると、炭治郎たちの出身地には、平将門、徳川家康、藤原北家といったキーワードが隠れているようです。
一見、バラバラに見えますが、「鬼滅の刃」の物語の秘密を解くための重要な鍵になっていそうです。
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