愛宕山には、那田蜘蛛山の炭治郎と禰豆子を思い出させる伝説があります。
The clue to solving this mystery seems to lie in the “sakagami”.
この謎解きのヒントは「逆髪」にありそうです。
(この記事は、「鬼滅の刃」3巻、4巻、5巻、7巻、8巻、21巻、22巻のネタバレを含みます)
貴船神社の創建伝説に沿って、「鬼滅の刃」立志編のイメージが散らばっているようです。これまで見てきた旧淀川から貴船川間の遡り地点のイメージは、こんな感じ。
那田蜘蛛山では、累との戦いで初めてヒノカミ神楽が剣技に使われます。「迫りくる〝死〟を回避する方法」として父の記憶から炭治郎が辿り着いたのは、竈門家に代々伝わる神楽でした。
このとき禰豆子も母の呼びかける声にこたえて、炭治郎の危機を救うために初めて血鬼術・爆血を使います。
5巻 第40話に描かれるこの2つの火のイメージは、愛宕山に伝わる伝説に重なりそうです。この謎解きのヒントは、前記事の考察で参考にした「逆髪」です。
逆髪が示す愛宕山
下弦の伍・累は、大木も切り倒す鋼糸を使って相手を切り裂いたり、その糸の上を歩いて移動したりします。このイメージが、「犬夜叉」(4巻 第28話)に登場する「逆髪の結羅」に似ているという声があります。
興味深い点は、能にも「逆髪」という人物がいるところです。歌人で琵琶の名手として有名な「蝉丸」の姉宮で、醍醐天皇(第60代)の第三皇女と伝えられる人物で、生まれながら髪が逆さまに乱れる異形の姿をして、狂乱して辺土遠郷を彷徨っているとされています。
舞台では登場から所定の位置へつくまでの道行きに、こんな歌を歌っています。
(「蝉丸」 古名「逆髪」 世阿弥作)
清滝川というのは、淀川水系桂川支流の一級河川です。川沿いには高雄、槇尾、栂尾(とがのお)といった紅葉の名所があり、滝川は愛宕山の登山口です。そして山の麓を回って、嵯峨水尾と嵯峨の境で桂川に合流します。
桂川は羽束師橋(はづかしばし)の辺りで鴨川とも合流するので、貴船神社の創建伝説に出てくる鴨川と清滝川は逆髪の歌でつながっていることになります。
ちなみに、嵯峨水尾は清和源氏の祖・清和天皇(第56代)ゆかりの地です。清和源氏には鬼退治の源頼光の他、頼朝・義経兄弟も属しています。この地は原種のフジバカマを保存する活動も活発なので、毎年アサギマダラが飛来することでも有名な場所です。アサギマダラの羽の模様は、胡蝶さんの羽織の模様にそっくりです。
そして羽束師橋は羽束師地区と横大路地区を結ぶ橋で、そのそばにはかつて横大路沼がありました。横大路沼は、沼の鬼のイメージが重なる場所です。
清滝のポン治郎
逆髪が示す清滝には、ちょっと気になる伝説があります。愛宕山の参道脇にある「愛宕念仏寺」(おたぎねんぶつでら)の境内に祀られる「心見大明神」という明神様にまつわるものです。
愛宕山の登山口となる清滝には、かつて愛宕山鉄道が通っていました。
開発当時は観光路線として人気を集めたのですが、第二次世界大戦時には廃線となり、戦後はそのまま道路となって、清滝川のそばにあるトンネルも道路用のトンネルに転用されました。これが清滝トンネルです。
現在は心霊スポットとして有名ですが、それ以前は「人を化かす狸が出る」と言われていたようです。
その話に心を痛めた当時の住職が、祠を建てて狸を祀ったのが「心見大明神」のはじまりです。
「鬼滅の刃」7巻 第55話に出てくる伊之助の夢の中で、炭治郎は狸の「ポン治郎」になって登場していました。心見大明神の狸とポン治郎はイメージが重なりそうです。
参考 京都府京都市 愛宕念仏寺 心見大明神 | 狸旅記録 ~たぬたび~
清滝に現れた大天狗
大宝年間(701~704年)に、役行者と雲遍上人(泰澄)によって愛宕山は修験道の霊山として開山されるのですが、そのきっかけとなった伝説にも清滝の名前が出てきます。
二人が秘呪密言で祈祷をしたところ、雨があがって晴れわたり、地蔵(じぞう)・龍樹(りゅうじゅ)・富樓那(ふるな)・毘沙門(びしゃもん)・愛染(あいぜん)の五仏が光を放って辺りが明るくなったといいます。
続いて側にあった大杉の上に、天竺の日良(にちら)、唐土の善界(ぜかい)を従えて、一名を栄術太郎(えいじゅつたろう)とする太郎坊という大天狗が、それぞれの眷属を率いた9億4万余りの大集団で現れました。
太郎坊は、「我々は2000年前に、神霊の集まる霊山であるこの地を仏から託されて護っている。大魔王として山を領有し、人々を救済して悟りに導いているのだ」と言うと、天狗たちは姿を消してしまいました。
「山城名勝志」(1705年)内「白雲寺縁起」、「三国仏法伝通縁起」(1311年)
この変事を朝廷に奏上したところ神廟建立の勅許が下されて、その後の白雲寺の創建につながるのです。
一名に栄術太郎と名乗る太郎坊という大天狗とは、愛宕山にすむといわれた太郎坊天狗のこと。別記事で考察した、「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」(3巻 第24話)という炭治郎のセリフにつながる大天狗です。
愛宕山に伝わる日羅上人の伝説
太郎坊天狗が護っていたという愛宕山は、元は朝日峰(あさひみね)と呼ばれる山々の一部で、京都の北西(乾)に位置することから、古くから死霊を迎える霊山として祖霊神の鎮まる地とされていました。
「乾」(いぬい)は、道教では最高神「天帝」が住む宮殿の門である「天門」の方角とされるのですが、鬼門(艮 うしとら)に対して「陽の極み」となる方角でもあるため、陰陽道では「神がおわすとともに怨霊や魑魅魍魎も入ってくる」と考えられていたので凶方位とされていました。
昔話でも渡辺綱を襲った鬼女(一説に茨木童子)は、「いざ、我が行く先は愛宕山ぞ」と言って綱を愛宕山へ連れてこうとし、腕を切り落とされて逃げる際も愛宕山へ向かって飛んでいきました。(平家物語 剣巻)
茨木童子の姿は、「鬼滅の刃」では自ら腕を引きちぎって飛び去ろうとする猗窩座の姿が重なります(8巻 第65話)。
愛宕山に祀られていた勝軍地蔵
愛宕山にあった白雲寺の本宮には、「愛宕大権現」が祀られていました。その本地仏は「勝軍(将軍)地蔵」(しょうぐんじぞう)といって、お地蔵様が鎧兜を身に着けた姿をしています。上の絵は、高屋肖哲という方の将軍地蔵菩薩像をお手本にして描いてみました。
21巻 第186話末の戦国コソコソ話には、緑壱に関してこんな事が書かれています。
”うた”は緑壱のことをのんびりした人だなあと思っていました。雷が落ちても微動だにしなかったので地蔵の精か座敷わらしかと思っていました。
勝軍地蔵は、”うた”の緑壱に対する印象と重なりそうですね。
「京童」(1658年)などでは、愛宕大権現は「百済国 日羅の霊なり」と記されていて、日羅上人のことであると説明があります。
日羅上人というのは、「日本書紀」の「敏達(びだつ)天皇12年の条」に肥後の人と記されている人物で、大伴金村(おおとものかなむら)の命で百済に渡航する父・阿利斯登(ありしと)とともに百済へ渡り、百済王に仕えていたと伝えられる人物です。
智、仁、勇の三徳をそなえた賢人と名高いことから、厩戸皇子(聖徳太子)の教育のために招聘されて帰国。問われるまま日本の国力増強など百済対策について進言したため、随行していた百済の使者に暗殺されたといわれています。
日羅上人、炎の伝説
興味深いのは、「日本書紀」(奈良時代)によると、日羅上人は全身から火焔を発する力を持っていたとされているところです。百済の使者が暗殺を実行するときも、体から発する火焔が恐ろしくてなかなか手出しができず、12月晦日(みそか)に火が消えるのを見て手を下したといわれています。
「聖徳太子伝暦」(1331年)によると、日羅が体から火焔を発していたのは、日天(太陽)を拝んでいた聖人であったためとされていて、太陽と関係の深い人物と考えられていたようです。
「五経通議」(後漢時代)には「日ハ火精ノ陽気也」と書かれているところから、「山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰」(吉野裕子著)では「日、すなわち太陽は火精、つまり火の集積である」と解説されています。
そう考えると、緑壱の剣技である「日の呼吸」も、「太陽」や「火の集積である太陽」を連想するものが多数あるようです。(22巻 第192話)
- 碧羅の天(へきらのてん)
- 碧羅の天:晴れわたった青空。
- 烈日紅鏡(れつじつこうきょう)
- 烈日:激しく照りつける夏の太陽、またその光
- 紅鏡:紅色に輝く鏡で太陽の意味
- 幻日虹(げんにちこう)
- 幻日:太陽と同じ高さの両側に現れる光。虹色に色が別れて見えることがある
- 火車(かしゃ)
- 火車:車輪の形に燃える火。仏語で生前に悪事を犯した亡者を乗せて地獄に運ぶ火の車のこと
- 灼骨炎陽(しゃっこつえんよう)
- 灼骨:亀甲や獣骨などを焼いて吉凶を占う占術
- 炎陽:照りつける夏の太陽のこと
- 陽華突(ようかとつ)
- 陽:日の光。日の当たる側、転じて太陽の意味
- 飛輪陽炎(ひりんかげろう)
- 飛輪:太陽の異称
- 陽炎:地面から炎のようなゆらめきが立ち上る現象、かげろう
- 斜陽転身(しゃようてんしん)
- 斜陽:夕日
- 輝輝恩光(ききおんこう)
- 輝輝:照り輝くこと
- 恩光:万物を育てる春の光、太陽の光
- 日暈の龍・頭舞い(にちうんのりゅう・かぶりまい)
- 日暈:太陽の周りにできる光の環
- 炎舞(えんぶ)
- 炎:ほのお。燃え上がる火。燃えるような熱さ
緑壱の日の呼吸も、日羅上人の体を包む火焔も、こうした太陽の解釈につながっていきそうです。
日羅上人と愛宕山
日羅上人は百済対策について進言したため、随行していた百済の使者に暗殺され、詔によって難波小郡西畔丘前(なにわのおごおりのにしのほとりのおかさき)に埋葬されたと伝えられています。
そんな話がある一方で、愛宕山の縁起に描かれるように、難波で百済王の追討軍に勝利した後、淀川を遡上して愛宕山に隠棲したと伝える話もあります。
愛宕山に至った太陽のイメージを持つ日羅上人は、那田蜘蛛山でヒノカミ神楽を剣技に使えるようになった炭治郎や、血鬼術・爆血を使うようになった禰豆子とイメージが重なりそうですね。
鴨川から清滝をつなぐ逆髪の道行きは、そのことを指すヒントになっていそうです。