写真は天満橋です。中世のころ、天満橋と天神橋のある辺りに渡辺橋と呼ばれる橋が架かっていました。
This area is likely to be an important place in solving the mystery of ‘Demon Slayer: Kimetsu no Yaiba.’
この地域は「鬼滅の刃」の謎解きをするうえで、重要な場所になりそうです。
(この記事は、「鬼滅の刃」1巻、7巻、8巻、ファンブック第一弾、鬼滅の刃【外伝】 煉獄杏寿郎外伝のネタバレを含みます)
旧淀川、鴨川、貴船川を遡る貴船神社の創建伝説を辿っていくと、川の流域のあちこちに「鬼滅の刃」立志編のイメージが重ねられているようです。
これまでの記事はこんな感じ。
- 第1話「残酷」に重なる大雲取越(この記事です)
- 大雲取山、小雲取山、熊野那智大社
- 那田蜘蛛山の炭治郎と愛宕山
- 愛宕山
- 鬼と貴船大神
- 貴船神社
- 累と逆髪
- 鴨川
- 那田蜘蛛山の鬼と犬夜叉の妖怪
- 北野天満宮、西陣、仁和寺
- 珠世さまと愈史郎
- 河合神社、糺の森
- 響凱と手鬼
- 伏見稲荷、鞍馬寺
- 無惨と牛頭天王
- 御堂筋、垂水神社、伏見稲荷大社、横大路沼、八坂神社、蓮華王院、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社
ただ、この流域には、物語の始まりである「残酷」(1巻 第1話)に重なる場所が見当たりません。このヒントはファンブックにありそうです。
炭治郎の出身地は東京府奥多摩郡雲取山(西多摩、雲取山)。そして、誕生日は7月14日となっています(ファンブック第一弾 二十六頁)。
調べてみると、「雲取山」と「7月14日」には共通するキーワードがありました。それが「熊野那智大社」です。
雲取山につながる、大雲取越の「亡者の出会い」
熊野といえば、参詣する様子が「蟻の熊野参り」と言われるほど多くの人々の崇敬を集めていました。
山岳路を使って熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社と熊野三山を巡拝する参詣道は「中辺路(なかへち)」と呼ばれ、平安中期から鎌倉前期にかけて行われた上皇たちの「熊野御幸(くまのごこう)」の参詣道でもありました。
この道中の最大の難所が、那智と本宮をつなぐルート上にある大雲取山の「大雲取越」です。
興味深いのは舟見峠から色川の辻にかけて続く谷間の坂道で、ここは通称「亡者の出会い」とも呼ばれています。この道を歩くと、死に別れた親兄弟や知人の白装束姿が見えると言われるためです。
「残酷」では、当身を食らって意識を失っている炭治郎の周囲を亡くなった家族が囲んでいて、母・葵枝から「禰豆子を頼むわね」と託される場面があります。大雲取越に伝わる「亡者の出会い」にイメージが重なりそうです。
大雲取越、小雲取越に現れるダル
そして、大雲取越やそれに続く小雲取越には、ダルやガキ(餓鬼)と呼ばれる亡霊にまつわる伝承があります。ダルに取り憑かれると、異常な空腹感に襲われて死に至るというのです。
一時、那智に滞在して、実際に中辺路を歩いた南方熊楠もガキに取り憑かれた経験があるそうで、その様子を「ひだる神」(『民族』一巻一号一五七頁)に記しています。
寒い日などに行き倒れて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足が前に進まなくなり、一度は仰向けに倒れたが、幸いにも背負った大きな植物採集の胴乱が枕になったので、岩で頭を砕くのを避けることができた。
「残酷」(1巻 第1話)では、炭治郎も足を滑らせて仰向けに崖下に落下。胴乱ではありませんが、雪がクッションになって助かっていました。
「ひだる神」にはさらにこの後、大雲取山、小雲取山には深い穴が数カ所あるということで、その一つ「餓鬼穴」にまつわる話として、「本朝俗諺志」(菊岡沾涼)に掲載されている話が紹介されています。
紀伊国(現・和歌山県と三重県の南部)に大雲取、小雲取という二つの大きな山がある。このあたりには深い穴が数か所あり、手頃な石をこの穴へ投げ込めば音を響かせて落ちていく。二、三町(約218~327m)の距離を行くあいだ、石が転がる音が聞こえるほど限りのない穴である。その穴に餓鬼穴というものがある。
ある旅僧、この所にてにわかにひだるくなりて、一足も引かれぬほどの難儀に及べり。
ある旅の僧が、この場所で突然、空腹を感じて、一歩も足を運ぶことができないほどの困難に至った。
折から里人の来かかるに出あい、この辺にて食求むべき所やある、ことのほか飢え労《つか》れたりといえば、跡の茶屋にて何か食せずや、という。団子を飽くまで食せり、という。
ちょうどそのとき、里人がこちらへ来るのに出会って、「この辺で食べ物を得ることができそうな場所はありませんか?思いのほか空腹で、死にそうなのです」と言うと、里人は「来た道の茶屋で何か食べなかったのですか?」と言った。僧は「団子をお腹いっぱい食べました」と言った。
しからば道傍の穴を覗きつらん、という。いかにも覗きたりといえば、さればこそその穴を覗けば必ず飢えを起こすなり、ここより七町ばかり行かば小寺あり、油断あらば餓死すべし、木葉を口に含みて行くべし、と。
里人は「それなら、道ばたの穴を覗きなさったでしょう」と言う。僧が「確かに、覗いてしまいました」と言うと、里人は「だからです。その穴を覗けば必ず空腹を生じさせるのです。ここから七町(約763m)ほど行けば小さな寺があります。もしも油断すれば餓死するに違いないので、木の葉を口に含んで行くのがよいでしょう」と言った。
教えのごとくして、辛うじてかの寺へ辿りつき命助かる、となり
告げられたとおりにして、やっとのことでその寺に辿りついて、僧は命が助かったということだ。
お堂の鬼と出会った際、禰豆子は殺された人たちを見ても、口枷から涎を垂らしながら耐えていました(1巻 第2話)。この様子は、ダルに憑かれたことで油断すると餓死してしまうため、木の葉を口に含んでいた旅の僧にイメージが重なりそうです。
7月14日 熊野那智大社例大祭
7月14日は熊野那智大社の例大祭が行われる日です。祭りの別名は「扇祭」とも「火祭」ともいいます。
興味深いのは、熊野那智大社は神武東征神話に深く関わる神社だというところです。
熊野那智大社の社伝によると、神武天皇(第1代)が熊野灘から丹敷浦(にしきうら)に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのを見つけて那智の大瀧をさぐり当てられ、大己貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)の現れた御神体としてお祀りになったといいます。
その後、天照大神より遣わされた八咫烏の導きによって無事大和へ入ったことは、「古事記」(712年)や「日本書紀」(720年)が伝える神武東征神話でも有名な話。社伝では、このとき大瀧の守護もあったと伝えています。
この大瀧を祀る社殿を「別宮飛瀧大神(べつぐうひろうおおかみ)」とし、現在の場所に新しい社殿を造営して、国づくりに関わりの深い十二柱の神々を遷したのが仁徳天皇5年(317)のこと。「熊野那智大社例大祭」は、このときの遷宮、鎮座の様子をしのぶ神事だといいます。
神武軍と無限列車編の共通点
「日本書紀」によると、大和を目指した皇軍は最初に瀬戸内海を渡り、難波から淀川を遡上して河内に入って大和に向かおうとします。しかし長髄彦(ナガスネビコ)の防衛戦の前に兄・五瀬命(イツセノミコト)が負傷して進軍できなくなってしまいます。
そこで神武軍は、「日の神の子孫である自分たちが日に向かって賊を討つことは天の道に背いていた」として、今度は紀伊半島を回り込んで熊野に上陸、北上して、東を背に大和を目指すことにするのです。
熊野を進む皇軍の様子は、こんなふうに語られています。
天皇はただ一人、皇子・手研耳命(タギシミミノミコト)をつれて軍を進め、熊野の荒坂津(あらさかのつ)、またの名を丹敷浦(にしきうら)へ至った。この名は丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を成敗したことによる。
時 神吐毒氣 人物咸瘁 由是 皇軍不能復振
この時、(熊野の)神が毒気を吐いた。人々はことごとく疲弊してしまったため、皇軍は起き上がることもできなくなってしまった。
無限列車の中で、煉獄さんをはじめ炭治郎たちは夢を操る魘夢の血鬼術で眠らされてしまいます(7巻 第54話)。この様子は、熊野の神の毒気にあてられて進軍できなくなった皇軍の姿に重なりそうです。
「日本書紀」では、さらにこんなふうに続きます。
この時、名を熊野の高倉下(タカクラジ)という人物がいて、にわかに夜、夢を見た。
天照大神謂 武甕雷神曰 夫葦原中國猶聞喧擾之響焉 聞喧擾之響焉 此云左揶霓利奈離 宜汝更往而征之
天照大神(アマテラスオオカミ)が武甕雷神(タケミカヅチ)に言うには、「いったい、葦原中国(あしはらのなかつくに)は、なおもざわざわと不穏に騒ぎ落ち着かないようだ」。聞喧擾之響焉、これは「左揶霓利奈離」(さやげりなり)という。「お前が再び行き、それを討ちなさい」。
武甕雷神對曰 雖予不行 而下予平國之劒 則國將自平矣
武甕雷神が答えていわく、「私が行かなくとも、私が国を平らげた剣を下せば、国はおのずから平らぐことでしょう」
天照大神曰 諾。諾、此云宇毎那利。
天照大神は、「それでよろしい」と言われた。諾、これを「宇毎那利」(うべなり)という。
時武甕雷神 登謂高倉下曰 予劒號曰韴靈 韴靈 此云赴屠能瀰哆磨 今當置汝庫裏 宜取而獻之天孫 高倉下曰 唯々 而寤之
この時、武甕雷神は高倉下に命じて言った。「我が剣の名は「韴靈(ふつのみたま)という」。韴靈、これを「赴屠能瀰哆磨(ふつのみたま)」という。「今、お前の庫(くら)の中に置こう。よろしく取りて、天孫(あまつひこ)にこれを献上しなさい」。高倉下が「仰るように」と答えると目が覚めた。
明旦 依夢中教 開庫視之 果有落劒倒立於庫底板 卽取以進之
あくる朝早く、夢の教えを頼りに庫を開いて見ると、果たして落とされた剣が庫の底板に逆さまになって突き立っていたので、ただちにこれを取って天皇に献上した。
于時 天皇適寐 忽然而寤之曰 予何長眠若此乎 尋而中毒士卒 悉復醒起
この時、天皇はよくねむっておられたが、たちまち目覚めて言った。「私はどうしてこんなに長く眠っていたのだろう?」。続いて毒にあたった兵士たちも、ことごとく目覚めて起き上がった。
無限列車・後編が収録されている8巻の表紙は煉獄さんで、柄の頭に右手を置き、その上に今、まさに左手を置こうとしている場面が描かれています。刀の刃は真っ直ぐ下向きに描かれていて、神話の中で武甕雷神が高倉下の庫に落とした剣のように見えます。
そして熊野の神の毒気に倒れていた神武天皇が目覚めるときの、あっけらかんとした様子は、魘夢の夢から目覚めた煉獄さんの姿に重なりそうです(7巻 第60話)。
無限列車編に重なるイメージも、神武東征の重要地点である熊野を指しているようです。
旧淀川につながる熊野街道
「残酷」(1巻 第1話)に重なる場所が熊野だとすると、大川(旧淀川)には興味深い場所があります。天満橋と天神橋の間にある、「八軒家」です。
上の写真に写っている京橋シティーモールの前にあるのは、平成20年に整備された水上ターミナル「八軒家浜船着場」です。この京橋シティーモールの裏手には「八軒家船着場跡の碑」があります。
江戸時代までここが船着場で、八軒の船宿や飛脚宿があったことからこう呼ばれていたわけですが、その一つ「京屋」は新選組と深い関わりのある船宿でした。
徳川家茂の警固で上洛した壬生浪士組時代から、鳥羽伏見の敗北で徳川慶喜が大阪城を脱出、幕府軍が江戸に敗走するまでの期間、新選組の大阪の拠点の一つとして利用されていたのです。
「鬼滅の刃【外伝】 煉獄杏寿郎外伝」に登場する下弦の弐・佩狼は、新選組との関わりをにおわせる描写があって、八軒家浜の新選組の拠点とイメージが重なりそうです。
古代から中世にかけて、この地域は渡辺津と呼ばれる交通の要衝で、渡辺党の支配下にありました。渡辺党というのは、源頼光の四天王の一人・渡辺綱を始祖とし、操船技術を持った摂津国の武士団のことです。
そしてこの地を起点に南北にのびる上町台地を通り、四天王寺、堺を経て、中辺路や大辺路(おおへち)につながる紀州田辺に至る道を「熊野街道」といいます。
つまり旧淀川と熊野三山は、鬼退治で有名な渡辺綱が鍵となる街道で、つながっているんですね。
「鬼滅の刃」1巻 第1話「残酷」のイメージは熊野に重ねられていて、貴船神社の創建伝説に関わる旧淀川に街道でつながっていると考えることができそうです。