秋芳洞で鍾乳洞を愛でつつ湯田温泉を楽しむ旅、その伝説と歴史編です。この土地、けっこういろんな伝説や歴史がありました。まずは秋芳洞に伝わる伝説です♪
昭和天皇が皇太子時代に洞内を探勝された際、「秋芳洞」の名前を賜ってからこの名前になったのですが、それ以前は「滝穴」と呼ばれていました。今回の旅行では水量が少ない時期だったのか、洞内から流れ出てくる水もいく筋か… 程度でしたが、時期が違うと、これがまさに滝のように流れているんだとか。
それでもチケット売り場から秋芳洞へと続く杉木立ちの道には洞内から流れ出た水が沢を作っていましたよ。なかなかの水量です。
こうした道に入る前、バス停から秋芳洞の入り口まで続くお土産屋さんの並びには、下の写真のようなお坊さんと河童の像を見ることができます。
これはなんだろうと調べてみると、「滝穴」にまつわるちょっぴり悲しい雨乞い伝説がありました。
寿円禅師
このお坊さん、秋芳町秋吉にある自住寺を禅寺として再興した僧で寿円禅師といいます。この方、雨乞い禅師、大洞寿円とも呼ばれているんですよ。
どうしてかというと、大干ばつに襲われた正平9年(1354)のこと、困窮する人々の様子に心をいためた禅師は、当時、魔物がすむと恐れられた滝穴にこもり、断食を伴う雨乞いを始めたからなのです。
37日目に満願を迎え、その効験で雷鳴を伴う大雨が降りだしたそうですが、禅師は亡くなってしまいます。
それは、奉謝のために洞内の竜ケ淵(りゅうがぶち)に入水したからだとも、洞内にあふれた水におぼれてしまったからだとも様々伝わっているようです。
その後、寿円禅師の亡骸は自住寺近くの川で見つかり、当時としては珍しい火葬にふされ、遺灰を練りこんだ土で座像が作られました。こういう像を専門的には遺灰像(ゆいかいぞう)と呼ぶようですね。
以来、干ばつに襲われるとその像を洞内へ運び、雨乞いするという風習が明治時代の中ごろまで続いたそうです。
現在、この座像は秋芳洞入り口脇にある開山堂に安置されていて、県の有形文化財にも指定されています。
禅師河童
伝説によると、滝穴から流れる川の淵には河童がすんでいたそうです。この河童、正平9年の大干ばつではさすがに食べ物に困り果て、自住寺の放生池から鯉を一匹、盗んで食べてしまいます。
背に腹は変えられない… とはいえ、後ろめたい気持ちもあった河童。寿円禅師が滝穴にこもって祈祷を始めたと聞いて、大慌て。「鯉を盗んだせいで俺を呪い殺そうとしているに違いない」と、一生懸命、祈祷の邪魔を始めたそうです。
でも、寿円禅師のほうはまったく意に介さず一心に祈祷を続けるので、その姿に感動した河童はだんだん禅師の手伝いをするようになっていきます。勘違いが激しいけど、けっこういいやつです。
そして、満願の日。
激流に流される禅師を助けようと河童もその流れに飛び込むのですが、なんてことでしょう。流されちゃうんですよ。河童なのに。鯉一匹じゃ、力が出なかったんでしょうか(涙)
禅師の亡骸が発見されたとき、そばに河童もいたそうだけど、河童は力尽きたのかそのまま川下に流されていったそうです…。
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